神代植物公園「秋のバラ・フェスタ」

10月の連休初日、足が痺れる、腰が張るといって、狭い家に閉じ籠ってばかりでいるのも良くないと思い、幸い暑くもなく寒くもない陽気に誘われ、正午頃から半日、近場を巡る散策に出かけました。ルートは、府中熊野神社古墳、武蔵国分寺跡、お鷹の道と真姿の池湧水地、最後に神代植物公園。植物園では「秋のバラ・フェスタ」というのをやっており、着いたのは15時過ぎでしたが結構な人出です。特に年輩の、まぁ要するに爺婆が高級なカメラを持って写真を撮りまくるという風景。この季節、アレもコレも咲いているわけではないので、ここにアップしたのはそのバラと、ダリア、それに温室内のベゴニアとランです。

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今年の夏休み―洗足池:繆崇群の足跡を尋ねて

今年の夏休み、などと銘打ちましたが、格段変わった、目覚ましいようなことは何一つありませんでした。第一に体調が芳しくない。一昨年の椎間板の大病以来、めっきり身体は弱り、気力や根気はすっかり失せてしまいましたし、昨年は頸椎の異常が発見され、今年は腰の不調は相変わらずですが、特に7月頃から左下肢の痺れが顕著で、時には左手も痺れます。昨年、頸椎の変形による神経圧迫で、右手指2本が痺れていましたが、これがようやく良くなったと思えば、今度は左側…万病群がり起こる、といった感じです(哀)。震災後、授業が始まり、その間は所謂研究というか、論文執筆は出来なかったので、7月下旬に休みになるや、書き物を開始。8月一杯まではかなり根を詰めました。所謂休みという感じは殆どなかったなぁ…9月中旬に恒例の三重大学集中講義に行った他、唯一の外出らしい外出としては、お盆の頃に(都内の道が空いているだろうと考え)大田区千束の洗足池に行ったことです。去年から『情影―陳範予詩文集』に継いで中国で出す予定の『繆崇群文集』を編集していますが、繆崇群は大正の末から昭和の初めにかけて、慶應の文学部に留学していた頃、大岡山に下宿していました。そして、洗足池で友人たちと語らった一夜のことをエッセイに書き留めております。そういう文人、文学史ゆかりの地を実際に訪れるというのは、結構好きな方なので、随分と暑い日でしたが田舎からノコノコ出て行った次第。もちろん池と周辺の古跡以外、繆崇群を感じさせる何かがあるわけでもなく、池のほとりに立つ図書館で、地元関係の資料も少しめくりましたが、特に収穫はありませんでした。ただ、池を一周してから、車で大岡山駅周辺、北千束の辺りを流していると、ここら辺がかなり起伏の多い、坂道だらけの地形であることがよく分かりました。繆崇群のエッセイにも、そういう昔の武蔵野の風景が美しく、懐かしく描かれるのですが、当時ならさもありなんと思わせる地形でした。こういう調査(?)は、そういったことが偲ばれるといった程度でいいのだと思います。

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写真は案外に多くなったので、シドニーの時と同様、スライドショーにします。中原街道の側から池の周囲を左回りに一周したのですが、写真は順番に中原街道洗足池前、東急電鉄洗足池駅、勝海舟旧別邸(洗足軒)址、御松庵「日蓮上人袈裟懸けの松」、池の写真を二枚挟んで、西郷南洲留魂祠、勝海舟夫妻墓所、池の写真を一枚挟み、弁天様、千束八幡の名馬「池月」の銅像、千束八幡、という順番です。最後の方のトンボももちろん池にいたものです。

シドニー観光

前回のアップから早くも半年近くが経ってしまいました。前回載せたのは、2月の上海行の写真でしたが、御存知の通り、3月には東日本大震災があり、しかし、地震発生6日後には用務で上海に再び行き、すると二週間遅れの新学期も始まるという具合で、落ち着いて写真の整理も出来ませんでした。時系列から言えば、次に来るのが標題のシドニー行ということになります。5月14~19日と、短い期間でしたが、初めて紅毛碧眼の人々が暮らす土地を訪れました。タイトルは「観光」と銘打ちましたが、実際はシンポジウム参加が目的です。シドニー大学附設の孔子学院の中国側院長というのが友人の郜元宝クンでして、復旦大学中文系から大挙参加者を呼ぶというので、そこに混じって呼ばれたという塩梅です。シンポジウムはCotemporary Overseas Chinese Literature:Theory and Practiceというテーマでして、参加者は見知ったような顔触ればかりで、些か新鮮味に欠けましたが、それはそれとして、初めての土地はやはり面白かったです。とにかく雲ひとつない青い空、風格のある立派な大学、コアラにカンガルーにワニ(笑)、もう少し食事が美味ければ、長逗留しても良いと思いました。何しろ写真の枚数が多いので、今回は一々解説をつけずに、スライドショーで御容赦を。到着後から、その日の午後にかけて撮った約30枚程の写真は、SDカードの不調で読み出せなくなってしまいましたが、まぁ大勢には影響ありませんで、これはホッとしました。ではスライドショーをお楽しみください。

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上海巴金故居

2月中旬から5日間、慌しい日程でしたが、上海に行って来ました。科研の調査で、上海市作家協会にある文革時期の巴金批判関係資料を収集することが主たる目的でした。このテーマに興味を持っている院生を同道させたので、上海における巴金ゆかりの場所も案内してやりました(偉いセンセイだ。笑)。その内から、現在“巴金故居”と公にされている二箇所の写真を紹介しましょう。

先ずは1937年から戦後にかけて住んでいた霞飛坊(今は「淮海坊」)の故居です。3階建ての構造で、巴金(後には夫婦)は2、3階に住んでいたそうです。楊苡だったか、戦後にここが穆旦とか色々な人間の集う場所だったことを回想しています。次兄の李堯林が天津から上海に出て来た時も此処で同居したはずです。すると、今の長楽路/茂名南路のライシャムシアターも歩いて5分程度、足繁く通ったというのも理解出来ます。私のかつての記憶では、「淮海坊」という弄堂の標識が淮海路から見えた筈ですが、どうも見当たらなかった。最近、美臣大酒店というホテルがドカッと出来たせいで、この住宅群は巴黎春天というデパートと、ホテルに完全に隠されてしまったのですね。そのせいか、繁華街の真っただ中にも関わらず、案外に静かな感じです。

 

 

 

さて、次は巴金が亡くなるまで住んだ故居。といっても最晩年の数年間は華東医院に入院していたわけですが…。場所は武康路113号、淮海路の上海図書館を北に入る湖南路との交差点から二軒目です。1989年に私は此処を訪れて巴金に面会しました。今は誰も住んでいません。

 

 

この建物は2011年11月25日(巴金の誕生日)を期して、「巴金故居博物館」として一般公開される予定です。この写真を撮った翌日には、家具の選別、運び出しが行われたとのことです。

2011年新年早々の集中講義、伊勢、松阪、そして桑名

大分遅くなりましたが、今年2011年正月の旅行の際の写真です。旅行といっても、旅行のための旅行ではない、何と1月4日から丸3日間、三重大学人文学部に集中講義に参りまして、仕事を終えた後に松阪に一泊したという、いわば出先の小旅行(?)のようなものです。

下に並べたのは、一昨年から、津に滞在中に一回は寄ることにしている、津駅前の「伊勢門本店」のお料理です。2010年9月、前期の集中講義の際に試して効果的だったので、授業をしている間は飲酒を慎むことにしたのですが、これは講義を全て終えた晩に独り乾杯というわけで、少し奢った次第。

 

お通しとお造り。お酒は地元の「宮の雪」です。チラホラと雪の舞う、寒い日だったので、もちろん熱燗で。お造りには松阪牛も見えます(何か去年も同じような写真を載せた気がする…)。

 

左は「牡蠣の朴葉味噌焼き」、右は「クエの唐揚げ」です。そして今回のメインディッシュ(?)は、自分への御褒美、お年玉として伊勢海老です。

 

半身はお造り、残りの半身は焼き物、そしてお造りの殻は最後にアラ汁にして貰います。イヤァ、奢っただけのことはある、天下の珍味ですなぁ。

独り宴会の翌日は伊勢、松阪の観光です。近鉄で宇治山田駅に着きました。皇族も利用するとかで、異様に立派な、文化財的建造物でした。

 

先ずは徒歩で伊勢神宮の外宮のお参りに。お伊勢参りと言えば、先ずは内宮なのでしょうか、こちらはあまり人も多くありません。

 

で、こちらが内宮。やはり人が多い。そしてうるさい(…)。清浄な雰囲気、ましてや年の初めの初詣です、もう少し粛々と出来ないものでしょうか?

 

伊勢神宮は二度目ですが、ここはやはり清浄の地、という感じです。過剰な装飾を削ぎ落とした、簡素な美しさですね。右は五十鈴川です。この頃から雪が強く降ってきました。

 

これはお伊勢様の新名所「おかげ横丁」。右図は言わずと知れた「赤福」の本店です。まぁ巻き直しだか何だか、幾ら酷いインチキをしたってやはり人気の土産物です。みな行列をして買っていました。

 

こちらは「おかげ横丁」の半ば辺りで直角に交差している「おはらい横丁」。何のことか良く分かりませんが。訪れたのは7日、松の内ということもあって、まだまだお正月気分濃厚。演し物もありました。

「おはらい横丁」で昼食を済ませてから、更に南下して松阪に着きました。松阪と言えば本居宣長。というわけで駅前には、宣長さんのトレードマーク、巨大な鈴がありました。しかし、人影の少ない、死んだような町だなぁ。

 

松阪城址です。ここの石垣は何とか衆という専門技能集団が積んだもので、堅固で美しく、他に類を見ないとかいうことです。

 

これは城址内の敷地に移築された本居宣長旧居「鈴の屋」と、鈴コレクションの一つ。

お城を降りて来ると、目の前に「御城番長屋」が軒を連ねております。お城の守護に当たった家来が住んでいたもの。いったん事があればすぐに駆けつけたのでしょう。今でも数戸は当時の子孫がお住まいだそうです。

 

松阪の街並み。松阪商人発祥の地ということで、右は三井家です。これにて松阪観光はオシマイ。久し振りにガシガシと歩いて、すっかり疲れてしまいました。寒いので厚着であったこと、体重が重いこと、靴が革靴であったことなどが敗因(?)だったでしょうか。この晩は松阪に一泊。大風呂付きの宿だったので、ゆっくり風呂に浸かった次第。

翌1月8日は帰京の日ですが、桑名で途中下車して見物して来ました。昔から(多分子供の頃から)、例の安藤広重(最近は歌川広重、って呼ぶらしい)『東海道五十三次』の桑名の絵がお気に入りで、どういう所か一度見たかったのです。松阪ではゆっくり朝風呂などに浸かっていたので、少し出遅れて、お昼頃に桑名着。オヤ?桑名と言えばハマグリではないのかな?駅前の看板には「鋳物の町」とありますね(?)。

 

駅前からテクテクと1キロちょっと歩くと、本多忠勝の銅像が辺りを睥睨していて、右手が桑名城址です。今は九華公園ということで、右図の如く、池があるだけです。

 

公園を出て、本多さんを左手に、少し進むと、そこはもう揖斐川の堤防です。その先には、広重も描いた蟠龍櫓が復元されています。

 

ここは東海道旧道です。右図は本陣の跡。今も料理旅館のようです。何でも鏡花はここで『歌行燈』を書いたとか。

 

本陣から暫く川沿いに歩いて行くと、諸戸氏のお屋敷、庭園「六華苑」があります(今は市の管理)。洋館+数寄屋造り、芝生+日本庭園というワケのワカラン構造。洋館は最晩年のジョサイア・コンドルの設計だそうです。

というわけで、久し振りの一人旅。歴史のある町というのは、どことなく床しい感じのするもので、こういう所をブラブラするのは好きな方です。で、少しは気分転換になったようですが、旅行に最適の季節とは言い難く、やはり疲れました。そうそう、年末に新調したカメラ(ライカD-LUX5)の使い初めという感じもありましたが、使い方に習熟していないせいで、上の写真にも色調の妙なものが混じっていますね(笑)。次の出講は9月ですが、その時は何処に行こうかな。

年の瀬、雪の仙台と松島

年の瀬、もう押し詰まったクリスマス・イブの24日、復旦大学の袁進教授を案内して、冬の仙台、松島に2泊で行って参りました。“寒い時には寒い所へいくべし”とかワケの分からないことをしたり顔で言って、見事に震えて帰ってきました、というのも、仙台、松島、雪だった!

新幹線こまちに乗れば、東京~仙台は90分程度の距離、案外近いものです。11時近くの列車でしたが、ちょうどお昼時に到着。早速昼飯ですが、チュゴクジンが好きだろうが嫌いだろうがお構いなし、先ずは牛たんでしょう。駅ビル地下食堂街の「喜助」という店で牛たん定食を食べました。しかし、以前も思ったことですが、こんなもん、何が美味いんだろう?盛り付けも貧乏臭いし、値段だって別に安くない。全国謎の名物の上位にランクされること間違いなしです。

宿に荷物を置いて身軽になってから、最初の目的地、東北大学史料館へ。単なる物見遊山ではなくて、やはりそこは魯迅センセイゆかりの土地を訪れて、遠く前世紀初に思いを馳せようという、殊勝な心がけです(笑)。これは東北大学正門です。

 

これが東北大学史料館です。ここに着いたのが14時半過ぎだったでしょうか。この頃からハラハラと雪が舞い始めました。史料館の展示には魯迅に関連するコーナーも設けてあります。『魯迅と東北大学』というパンフレットがあって、中国語版もあるのですが、しかしこれは生協に行かねば買えません。史料館で売ればイイじゃないかと思います(不肖ポコペン、その手の業務に関わっているせいで、実は大学附設の史料館が直接金銭の授受を伴う行為を行えないとは承知しておりますが)。こういう所はやっぱり国立大学だなぁ。

  

史料館の左手に、仙台医専旧跡の碑があり、その右には魯迅の像。まぁ魯迅を顕彰するのもいいですが、基礎課程の半ばで退学した、医学生の卵とも呼べないような人間を、いくら後に偉くなったからといって、学校との関わりで称えるというのも、度を超せばどうかと思うなぁ。

 

大学のキャンパスを出て、歩いて数分の所に、魯迅が住んでいた下宿が今でも残っています。かなり老朽化していて、家屋も傾いていますが、まだ人がお住まいのようです。ちゃんと標識も立てられております。

これは阿部次郎記念館。角川源義が出資して、阿部に主宰させた「日本文化研究所」の建物を利用したもの。住まいは別だそうです。東北大学史料館と魯迅の旧居跡を見て、所期の目的は達したのですが、定禅寺通りの光のページェント点灯時刻まではまだ間があるので、魯迅旧居前に看板のあったここへ来たということ。しかし、結構距離があって、足が棒…靴を脱いで展示を見ようとして、両足とも攣ったにはビックリ。

 

で、光のページェントは17時半に点灯されました。元々このイベントは青葉通りで行われていたそうですが、いま青葉通りは地下鉄工事中なので、こちら定禅寺通りに移って来たとのこと。ちなみに、少し前、電飾が火災を起こしたそうで、暫く点灯は見合わせていた、それが昨日から復活ということで、これは実にタイミング良かった。しかし、雪のクリスマス・イブということで、まぁ人の多いこと!

 

仙台2日目。昨夜地下鉄に乗って帰って来たときにも、雪はかなり降っていたので、予想はされたことですが、朝起きてカーテンを開けて見れば、このような有様でビックリ!今日は定期観光バスに乗って松島へ行く予定ですが大丈夫かしらん?雪に弱い東京なら完全に交通麻痺でしょうが、そこは何と言っても北国、誰も慌てた様子を見せず、バスも定刻にやって参りました。

定期観光バスは9時過ぎに仙台駅前を出発。乗客は我ら2名を入れて、計15名でした。先ずは青葉城址へ。天守址から仙台市街を見下ろしても、こんな有様。本当は眼下に広瀬川が見えるはずです。

 

城址広場の伊達政宗の騎馬像も寒そうに雪を被っております。

さて、こういう観光バスの習いとして、とにかく時間設定は慌しい。青葉城址には40分くらいしかいなかったでしょう。次に向かう先は塩釜の遊覧船乗り場です。11時の船に間に合わせるために、市内見物は本当のおまけ程度。ここから遊覧船に乗って松島へ行きます。バスは先回りして、客が松島観光を終えるのを待つということ。

 

船が動き出すと、ウミネコが追ってきます。これに与える餌は「かっぱえびせん」だそうです。

 

大小様々の島を眺めながら約50分で松島に着きました。しかし、船上は寒かった…。

 

先ずは昼飯。瑞巌寺の山門を入り(山門というけれど、ここは門から本堂まで平坦で見渡せます)、杉木立を抜けて、境内の一角にある食事処で貧しい宛がい飯。10分もかからずに食い終わってしまいました(…)。何といっても、お膳に見える動物性蛋白質は笹かまぼこだけなのですから、どういう食事か推して知るべしです(…)。

時間の余った向きは隣のお庭など御覧になっては如何と、バスガイドが勧めるので、別料金を払って円通院という、4代目だかの殿様の廟所を見物。雪のお庭はなかなか風情がありました。

 

で、瑞巌寺の本体ということになりますと、実は国宝の本堂は、建立以来初の大改修を行っていまして、それが完成して、再公開されるのは、何でも7年か8年も先とのこと。その間、お位牌やら何やらは、隣の庫裡に移されて参観させています。しかし、冬のお寺見物というのは足裏から凍えてきて、実にツライです。

 

瑞巌寺を出て、今度は向かいの五大堂へ。これは遠くから眺めるものであって、中に入って面白い見ものでもありません。

 

で、最後の参観先は「伊達政宗歴史館」という怪しげな施設。フン、要するに蝋人形館ですね。ここは2階建てで、1階は仙台、宮城に限らず、東北地方全域出身の偉人、有名人の人形が一堂に会しております。上図左は小林多喜二、右は…誰でしょう、この爺さん?実は秋田雨雀です。へ~という感じ。

 

二階の方もザッと通り過ぎてきました。かつて大河ドラマで伊達政宗をやったらしいですが、見ていません。その生涯も殆ど存じ上げませんので、ハァハァって感じ(萌えではない…笑)。

 

で、この子供騙しみたいな人形の館はすぐに出て、向かいのレストランで焼き牡蠣を4つ、熱燗を2本頂きました。美味かったです。上図右は、当日宿に戻って食堂で食った牛たん焼き。固かったな…。

翌日は雪も止み、青空が広がりました。仙台市博物館を参観に行きました。

 

館内を参観する前に、建物の左横にある魯迅の記念碑を見に行きました。ここに最後に来たのは(多分2度来ています)もう大分前のことで、図右のような、紹興市から寄贈された胸像など増えておりました。

博物館の展示から。日本の博物館といえば、やっぱ刀剣に甲冑かなぁ。刀剣の展示は殆どありませんでした。

 

博物館を出て、広瀬川に架かる大橋から下を覗き込むと、ヴ~、凍えそうな風景です。と、市街寄りの橋の袂を降りると、図右のような記念碑がありました。何でも、切支丹禁教のために殉教したポルトガルの神父さんらの碑だそうで、この大橋の辺りで水責めで処刑されたのだそうです。真冬のことだったら、心臓なぞきっとすぐに停止していたでしょう。それほど寒々しい場所です。

 

これは土井晩翠晩年の居所、「晩翠草堂」。図右の「天地有情」は、明治新体詩史に名高い晩翠の第一詩集の名前。

駅まで戻る道すがら最後に見たのが「青柳文庫」の碑。江戸末期、民間の篤志家が公開した、民間初の図書館だそうです。世の中には偉い人がいるものです。

という感じで、2泊3日の仙台、松島旅行も終わり。第一に寒かった。第二に牡蠣を結構食った。言うなればそれだけですが、まぁ特に面倒なこともなく順調に旅程をこなし、年の瀬もすっかり押し詰まった12月26日に無事東京に戻って参りました。袁進氏は、まぁ向こうも気を遣っていたのでしょうが、旅の連れとして特に問題なく、食い物も皆美味い美味いと召し上がっておられ、これは何よりでした。しかし、本当に面白かったのかなぁ?

羽田新国際線ターミナル

旧年中のことになりますが、師走も半ばを過ぎた頃、中国は上海、復旦大学から先生を招いて授業をして頂きました。その往復は、上海虹橋/羽田/虹橋という路線を利用したので、送迎の際に11月に新規開業した羽田の新国際線ターミナルをじっくり見ることが出来ました。

以前、韓国金浦空港に行くのに、羽田の国際線ターミナルを利用したことがありましたが、当時は何か貨物ターミナルでも流用したような、殺風景な感じでした。今度開業した24時間体制の新ターミナルは、小規模とはいえ、色々と利用客の利便性にも考慮した構造になっていますし、雰囲気も国際線ターミナルらしいです。

 

京急や空港モノレールが直接乗り入れているというのも新機軸で、この空港のセールスポイントです。

 

まだ先月の開業時の賑やかさを留めております。

季節はクリスマス、このような大きなツリーも飾られておりました。

これが国際線ターミナルの目玉(?)、「江戸小路」という飲食店/土産物店エリアです。中央に舞台が設えられ、その左右に店が並んでおります。

 

店の上にはこのような芝居小屋の雰囲気を模した演出もあります。

 

舞台の左右はこのような“小路”になっています。それぞれの店の間口は案外に狭く、ちょっとした土産物を並べるスペースとしては十分でしょうが、飲食店には狭いような気がしました。

展望デッキに上がるとこんな様子になっております。まだ新しくてキレイです。

このようにフェンスの邪魔なく写真を撮影出来るというのも…

こういう具合にフェンスの一部に窓が開いていて、そこからカメラを差し出すことだ出来るからなんですね。開業当時、よくテレビの報道でも紹介されていました。

まだ開業間もないということで、別に出発/帰国の人間だけでなく、専ら空港見物に訪れる人も随分といたように見受けられました。まぁわざわざ見に行くほどのことはないようにも思いますが…3月中旬に上海に行く便は羽田発にしましたが、中に入らなければ分からない免税店とかどうなっているでしょうか?

この時お迎えした中国の先生ですが、授業を終えてから仙台2泊の旅行にお連れしました。その際の様子などはまた別のタイトルで紹介いたしましょう。

韓国仁荷大学「東アジアにおける国際主義の復元」国際シンポジウム

もはや旧聞に属すと言ってもよいのでしょうが、11月24日から27日まで、韓国は仁川にある仁荷大学で開催されたシンポジウムに参加してきました。なぜこの会議に参加することになったかといえば、少し奇妙な感じなのですが、私は日本からの参加者として出て行ったのではなく、共同主催者の一つである上海大学に割り当てられた(?)頭数の内に入れられたらしい。上海大学文学院の文化研究系の校外委員ということになっている、そのせいで、主任の王暁明クンが動員をかけたということ。まぁ遠くではないし、行ったことのない土地に行くのは好きな方ですから、ホイホイ話に乗った次第。さて、成田発の飛行機が9時台のフライトだったので、空港近くのホテルに前泊したのですが、久し振りに大浴場に浸かってイイ気分になっていたら、家人から電話が入って、何でも北朝鮮が仁川延坪島に向けて砲撃を加えたというではないですか!かなり焦って、韓国や上海にメールを飛ばしまくり、外務省や航空会社の情報も刻々チェックし、どうやら大丈夫らしいと判断、最終的には明朝チェックインカウンターで確認しようということで就寝。

結局、何ほどのこともなく(飛行機は団体の観光客で満席!)、無事韓国は仁川に到着。4年振りくらいの韓国です。大学のゲストハウス(実際は長期滞在用のドミトリーの空き部屋を利用したらしい)に荷物を置き、北京からやって来た先生と、ガイドの中国人博士課程学生の3名で、旧開港地/租界地区の見学に出ました。

自由公園という所でタクシーを降り、先ずはマッカーサーの銅像をチラと見ました。初っ端から微妙な見物です。

ここら辺は要するに中華街です。右側の建物は元は清の領事館のあった所で、今は台湾の出先機関と中学校になっています。

これは植民地化以前の日本租界地区にあった銀行の建物。今は歴史的建造物に関する博物館になっています。

 

ここら辺は日本統治時期には本町通りと呼ばれていたらしい。これは朝鮮銀行の建物で、今は開港歴史博物館になっています。

これは開港歴史博物館の展示物のジオラマ。往時の本町通りの様子を再現したもの。

で、その晩の食事は焼肉でした。後からかつての学生に聞いた所では、最近はこういう骨付きカルビも怪しいものが多くて、何でも骨を接着剤で安い肉にくっつけたりするらしい(驚)。これはどうやら本物らしいとも言ってましたが。

で、翌日からは朝から晩までシンポジウムです。今回はアゴアシ全部主催者持ちですから、いつも中国でやっているような気ままな振舞いはいたしません。神妙に全ての報告を拝聴しました。これは仁荷大学の本部棟です。この地下にある教職員食堂で朝昼の食事をしましたが、基本的には肉スープの猫マンマをキムチで食うみたいな食事、ちょっとツラかったです。

これはキャンパスに屹立するシンボル、龍のモニュメントです。真実を表しているのだそうですが、理由はイマイチ不明。

この大学は何でも李承晩が創設したもので、今は大韓航空の会社が関係しているそうです。そんなわけで、キャンパスには幾つも飛行機が置いてあって、ちょっと不思議な光景です。

これが会場になった図書館。何とかメモリアル・ライブラリーとのこと。ここの6階の会議室でシンポジウムが2日間開かれました。

会場はこんな感じ。なかなか立派な会場ですし、会議としても立派だったように思います。

というわけで、会議の終わった翌日にはサッと戻って参りました。別に大砲の弾が飛んでくるからとか、そういうことではなくて、言葉も通じない(初日の二次会で、中国人3+ポコペンで呑みに出たのですが、酒は指差せば注文できますが、ツマミは困った…乾鱈の辛味鍋みたいなのを注文するのに大奮闘してしまった…)、土地勘もないような所では、案内がいなければ手も足も出ません。2日程なら滞在を延長しても良かったのですが、仕方なく尻尾を巻いたということです。仁川は砲撃事件に一番近い大都市ですが、街中は平穏そのもの、今にも戦争が始まるとでもいいたげな日本の報道のインチキ振りが良く分かりました(笑)。まぁ次は学会にその他大勢の一人で参加するといった形式でなく(ついでに言えば猫マンマは最低限にして貰いたい)、プサン辺りに行きたいものです。

郭沫若記念館(千葉県市川市)

11月1日、上海の友人が帰国するのを成田まで送って、一緒に前泊してやりました。放っておいて、一人で帰しても一向に構わないのですが、ついでに何か美味いものでも食おうという魂胆(笑)。いやいや、そうではない、これぞ真っ当な目的というのは、つまり市川にある郭沫若故居(記念館)を参観すること。前からずっと来たいとは思っていましたが、なかなか腰が重く、今回成田まで車で来たついででもなければ、まだ先延ばしになっていたことでしょう。

郭沫若は20年代後半から10年間、市川で亡命生活を送りました。市川の中でも何か所か移り住んだようですが、その中で最も長く住んだ家屋が補修され、しかも本来の場所とは異なる所に移築されて、現在は市が管理する記念館として開放されているというわけ。地番としては市川市真間というのですが、つまり「真間の手児奈」の言い伝えのある所です。

成田から車で約1時間、カーナビの言うことを聞いていたら、どんどん細い道に入りこんでしまったので、結局JR市川駅と京成市川真間駅の間くらいのコインパーキングに車は置いて、以降は徒歩ということにしました。記念館にも駐車場はありません。

道案内の看板

簡単な地図は持参しましたが、駅からはこのような道案内の看板が整備されていて、迷うことはありません。ただし、結構な距離です。この日は前々日までの台風模様とは打って変わって、好天に恵まれ、暑いくらいでした。

駅からひたすら真っ直ぐに歩いてくると、須和田公園があります。ここには郭沫若の「別須和田」という長詩を刻んだ詩碑があります(写真は後に掲げます)。ここを左手に曲がり、切り通しを抜けて道なりに進むと、記念館に着きます。

これが入口です。敷地は結構広く、手前は花壇が設えてあります。

どうやらこの敷地全体は、正式には「郭沫若記念公園」というらしいですが、どうも名称が混乱しているようです(?)。

「公園」を含む故居=記念館の全景です。

で、更に故居側に接近すると、今度は「記念館」の看板が立っています。

この額は真跡とのこと。床の間の掛け軸はニセモノだそうです。

内部はこんな具合で、狭いながらも色々と展示があります。恐らく余り見学に訪れる人もないのでしょう、大変きれいに管理されています。ひとつ不思議に思ったのは、かつて見たTVドラマの「沫若与安娜」に描かれていた市川の住まいと、雰囲気、間取りなどが良く似ているということです。ちゃんと考証したのでしょうか?それとも、ここに長らくお住まいだった六男・志鴻さんあたりがアドバイスしたのでしょうか?

故居を出て、来た道を戻り、須和田公園に入り、詩碑を見ました。なかなか立派なものです。私が日本で見た郭沫若の詩碑として、福岡志賀島、岡山後楽園についで三番目になります。

左側が「別須和田」の詩(かつての地名は市川須和田でした)。

右側が郭沫若の胸像レリーフ。余り似ていないというか、少々情けないお顔のようですが…。

もう一か所、地図には「桜土手公園」という所に、何か郭沫若に関係したものがあると記されておりました。桜土手公園といっても、別に公園風ではなく、細い道沿いに桜が植えてあり、所々に市川とゆかりの文人に関する説明を記したややチャチな看板が立っているというだけのことでした。

看板の表は当該人物の経歴を記してありました。

裏は市川に関する本人の記述が抜粋、紹介されています。郭沫若については小峰王親訳『日本亡命記』からの引用でした。

というわけで、ようやく長年の(という程でもないか。笑)懸案を解決した次第。どうも市川のみならず、千葉という所について地理的な感覚が全く欠けていて、帰路はまだ時間も早いことだし、木更津から東京湾アクアラインに乗って帰ることにしたのですが、これが予想外の大回りになってしまいました。木更津なんていうのは、房総半島の取っ付きの辺にあって、市川の隣町くらいに思っていたのですが、全くポコペンなことでした。実は木更津、房総半島内側をほぼ半分くらい南下した辺りにあるので、成田から戻ってきた、その半分くらいをもう一度逆戻りして、更に館山方向へずっと車を走らせる破目になってしまいました。市川っていうのは、もうほとんど東京みたいな位置にあったんですね。

巴金逝去五周年記念「2010巴金論壇」「“巴金・上海”展覧」など

10月11日から17日まで上海に行ってきました。15日に世博会に行ったことは既にレポートした通りですが、授業期間中、しかも授業再開直後に教授会までお休みして博覧会見物ということはない、ちゃんとした御用もあって、それは「2010巴金論壇」というのに出て、ちょっとした報告をすること、それから「“巴金・上海”」という展覧を見てくることが主たる内容です(他にも色々あったのですが、アリバイを主張するわけではないので、それは省略)。11日出発に際しては、予約していた新宿発の成田エクスプレスが、南浦和の人身事故の影響で運休になってしまい、少し慌てました。いつものように、昼飯で一杯、イイ気分になって、出国後ももう一杯なんて余裕はちょっとなかったなぁ(実は学生も一緒だったので、あまりみっともないことも出来ず…)。

これは昼飯の「酒肴セット」というもの。前にも載せたことあったかな(?)。別に美味くもありません。これにビールもしくはお銚子がついて、1500円くらいしたかな。

上海到着後、普陀区が用意した宿のロビーにあった案内。ウ~ム、このレベルのホテルに泊まるのは、随分と久し振りのような気がします。ロケーションも凄い場末の感じで、到着の晩の食事が終わり、皆で河岸を替えて、どこぞで茶でも啜りながらお喋りしようといっても、15分以上歩いて、大渡河路の区人民政府近くまで行かねば「上島珈琲」すらない有様。フ~ム、上海にもまだこういう所があるのですねぇ。

今回はipodを持参して携帯スピーカーに接続。上海の場末の寂しい宿に響くIvan Linsです。

これが「2010巴金論壇」その他の会場、普陀区図書館1階ロビーの様子。今年の初めに2億元を投じて開館したばかりの、新しい建物です。色々と意欲的にやっていこうという、それに作家協会が一枚噛んだという、まぁそんな具合らしいです。

図書館2階(?)のスペースで、一連の活動開始のオープニングセレモニーが開かれました。

セレモニーの最初は区の小学生が4名登場して、巴金にオマージュをささげます。ン?今日は火曜日ですけど、学校は?

開幕式が終わり、10階に移ると、そこでは手稿(陸正偉さん曰く、みんなコピー)と、各種版本の展示。ここはそもそも、作家のマニュスクリプトを収集して展示するスペースらしいです。

展示風景はこんな感じ。会場が新しいので、それなりに立派な感じはします。

特に珍しいものを見たという感じはしませんでしたが、それでも幾つかの本は初めて見ました。

こういう感覚はいまだによく分からないですが、巴金の作品名を篆刻作品にした人がいて、それも展示されていました。作者は大連の人で、多分周立民くんのお知り合いでしょう。

『第四病室』の原稿(部分)。巴金自身は毛筆で殴り書いたようなことを回想していますが、案外きれいに書かれていると思いました。

こんな感じで、こじんまりとしたミニシンポ。10時半から始まって、休憩を挟み、17時過ぎには終わりました。

宛がわれた飯ばかりというのも詰まらないもの。これは学生と食った「美林閣」(上海書城福州路店の裏)の昼飯。「糟」5種盛り合わせなんて、ピエールが悔しがるであろう好物。昼から少しお酒を過ごしたような感じでしたが、食後はキッチリ宿に戻って、本の校正をやりました。

10月16日の土曜日には、徐匯区の青少年活動中心という所(昔の名称は少年宮ですね)で、「巴金・上海」という展覧が始まりました。この日は好天に恵まれました。

開幕式のテープカット。右2は王安憶さん、右3は巴金の弟・李済生老人。李老は昨秋には随分衰えたような感じで心配でしたが、今回はお元気に見えて一安心。もう93歳だそうで。

展示の始まりはこんな感じから。実際見るまで分からなかったことですが、要するに上海市作家協会としての巴金逝去5周年記念行事のメインがこの展覧で、やはり気合いの入れ方が違いました。李小林さん(巴金長女)も、こういう場所には余りお出ましにならない方ですが、この時はお出でになって、お昼の食事も一緒でした。

“文化大革命”時期の迫害の資料。こういうものはやはり本場ならではの展示品です。

「人民作家」っていうのは、ちゃんとこういう風に「授与」される称号なんですね。証書を見て、初めて理解しました。

展示会場の壁面。各種著作の表紙です。

会場には書斎の一角も再現されています。

このような感じの展覧でした。当日は早く会場に到着してしまったので、無人の会場をゆっくり見ることができました。

暫くすると、隣のホールで、多分中学生くらいではないかな、地元の子供を集めて「走近巴金文化講座」という講演会が開かれました。壇上にいるのは左から陳思和、宗福先、李輝、陳喜儒の各氏。1時間ちょっとで終わりました。

全ての御用を終えて、買い物に出た南京路歩行街で、ビビアン嬢とツーショットです(笑)。しかし、この日の南京路は想像を絶する人の数。これまで数え切れぬほど来ていますが、初めて見たといってもイイほどの混雑ぶりで、すっかりイヤになりました(…)。

今回の上海行、出掛ける前は比較的ゆったりした日程のように思いましたが、何やかんやで慌しくなってしまいました。どうしてでしょう?律儀にこっちの友達にも、あっちの友達にもなどと声をかけていると、どうもこういうことになるらしい。どうも出版関係で用事が幾らか残ってしまったので、今年中に行けたらもう一度行きたいものですが、さて時間が取れるかどうか…。